御伽噺を創る石

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 会いたい、会いたい。
 あなたに会いたい。
 早くあなたに会いに行きたい。


「デュール、あまり海に近づくな。今日はすぐに帰らなくてはいけないのだから」

 近くに来て、もっと波に近く。そう願う僕の心とは反対に、旦那様の言葉が彼を海から遠ざける。

「はい、父上」

 その若い凛とした声を残して彼は行ってしまった。もう姿を見ることはできない。


 毎日朝の数時間。それが決まって彼が浜辺へやってくる時間だった。だから僕は毎日彼がやってくるのを待っている。海に近くなくては、彼の姿を見ることは叶わないのだ。ここは海の底。彼の知らない世界。当然、彼が僕を知ることはない。僕は海の底で波に映った彼の姿を見る。艶やかな黒髪、海を覗くその瞳は深い闇色で時々日の光を浴びて紺色に光る。今日で十三になる彼の体つきは、少年から青年へと変わっていく入り口に立っている。声はもう変声期を迎えて、女の子のように高い僕の声とは違ってしまっている。

 また背が伸びたのかな。

 並んで立ったことがないので分からないけれど、僕よりも少し高くなってしまったのだろう。まだまだ背が延びる様子を見せる彼に対して、僕の方はそんな気配さえ感じさせない。この調子で差をつけられると、ちょっと困る。ただでさえ鍛えても筋肉のつかない細い体をしている僕なのに。

 こんなんじゃあ、彼を守るなんて言えなくなってしまうよ。

剣の稽古はずっと続けているけれど、何せろくに相手もいないこの国だもの。おまけに僕も母さんも警戒されているから、おおっぴらには剣を構えることもできない。我ながらセンスは悪くないと思えるのだけれど、それも比較するべき好敵手もいない状態ではただの自己満足の域をでないことは十分承知しているんだ。

 そうして僕は毎朝、彼を見ることができた喜びのすぐ後に、彼を見ることをしかできない自分の状況を憂いて溜息をつく。本当は一日中月鏡と呼ばれる魔法の鏡を覗いていられれば、彼を目にする時間も増えるのだろうけれど、月鏡を覗いていることを他に知られるわけにはいかなかった。毎日通っている今だって、リスクが大きすぎるくらいなのだ。

「お帰りなさい、シュリ。誰にも見つからなかった?」

 僕が誰にも見つからないようにこっそりと家に戻っても、母さんは僕の僅かな足音を聞きつけて声をかけてくる。

「うん。平気だよ」

 僕は暗い部屋の中で椅子に座って僕の帰りを待っていた母さんに近づき、その青白い頬にキスをした。

「そう……。今日もお会いできたのね?」

 母さんには隠し事なんてできない。何もかも、僕の体の動き、声の調子で分かってしまうのだ。今日だって、僕の声に喜びと、どうしようもない落胆が混じっていることを聞き取ったのだろう。

「うん。でも、今日は領民からプレゼントを受け取らなくてはいけないからって、すぐに帰ってしまわれたんだ」

 僕は言いながら、声に出すだけでその落胆がさらに深いものになっていくのを悲しく思った。

「仕方がないわ。今日はデュール様のお誕生日ですもの。そんな不満そうな顔をしてはいけませんよ」

 母さんは僕の頬に優しく触れてそう宥めた。いつもなら、母さんの冷たい手が心地よくてすぐに宥められてしまう僕だけれど、今日はそうもいかない。

「お誕生日だからこそ、だよ。僕だって、何かプレゼントをお渡ししたかったのに」

 一年に一度しか訪れない大切な日。普通の日だって側にはいられないのに、こんな特別な日に遠くからプレゼントを贈ることさえできないなんて、何てもどかしいのだろう。けれどそのもどかしさは、どんなに感じていても母さんの前で口にするべきことではなかった。

「シュリ……」

 母さんはすでに多くの憂いの中に埋没してしまっているのだ。僕がすべきなのは、その憂いの嵩を増やすことではなく、少しでも取り除いて減らすことだけなのに。

「ごめんなさい。すごく馬鹿なことを言ったね。ごめんなさい、母さん」

 そう謝りながら僕は母さんの背に両腕を回す。母さんは僕の背を抱き返して囁いた。

「いいのよ、シュリ。焦らないで。いずれお側で、一緒にお誕生日を祝うことができるようになるわ。その時には、お祝いできなかった分を含めて、素敵なプレゼントが用意できるように考えましょう」
「……そうだね。そうしたいな」

 母さんの腕に抱かれながら、僕はその時が早く来ればいいと願った。


 今は海の底からしか見守ることのできない人は、僕にとって一番特別な人。彼は両親から良いところだけを引き継いだのだろう。人の上に立つ者としての身体的能力と人格。そして見る者を魅了する容姿。

「姫様に似られたのだわ」

 母さんは僕が彼の姿を話して聞かせるたびに嬉しそうにそう言う。それも間違ってはいないだろうけれど、でもきちんと旦那様に似られた部分もあると思う。だからこそ、美しくも逞しい印象を受けるのだろう。その美しさも逞しさも、僕にはない類のもので。だからこそ僕にとって彼は特別な人なのだ。僕とは違う人。僕の守るべき人。

 僕はそうやって、直接には会ったことのない人をずっと想ってきた。産まれた時からそう、母さんに教えられてきたからだ。

 母さんが姫様と呼ぶ女性は、デュール様のお母様だ。その方は母さんがこの国でずっとお世話をしてきたとても美しい人で、月鏡を通して見たデュール様のお父様に惹かれてこの国を出られた。それがこの国で禁忌とされていることは、その方も母さんもよく知っていた。けれどその方の恋心は抑えようもなく、母さんは誰よりも大切に想うその方のためにこの国では貴重な月長石を用意して、その方が地上へ出られる手助けをした。母さんは一緒にはいけなかった。手に入る月長石が、その方を地上へ送り届ける分しかなかったのだ。

 そうして、月の姫は海の底から地上へと帰り、残された母さんは姫様が地上へ出るための手助けをした罪で両目を潰された。多分、大旦那様――姫様のお父様でこの国の代表者でもある方――は母さんを殺してしまいたかったのだろう、とまるで他人事のように母さんは言う。それくらい姫様を愛していて、それほど地上を憎んでいるのだ、と。

 しかしこの国の最高権力者も、母さんを殺すことはできなかった。この国には女性が絶対的に必要なのだ。

「もっと露骨に言えば、子どもを産む能力のある人間が必要なのよ」

 そうしなければ容易く絶えてしまう国なのだ。だから姫様の望んだ恋心や愛情は、この国では無意味なものなのだ、と悲しく微笑みながら母さんは言った。

 母さんは両目を潰され、この家に監禁されつつ、国の送り込んでくる何人かの男に抱かれてそれぞれに子どもを産んだ。時に全く手酷い扱いをされても、母さんは何も感じなかったという。

「あの方がお心のままに地上で幸せな生活を送っていらっしゃるなら、私がこの暗い底の国でどういう扱いをされて生きようとも、問題ではないわ」

 母さんはそれくらい姫様を愛していて、それほどこの海の底の国を憎んでいるのだ。


 僕が一体何人目の子どもか、母さんには分からないという。ただ、それまで産んできた子ども達はすべて国に連れ去られるがままにしていたのに、僕を産んだ時に母さんは、あの方を送ってから初めて感じるものがあったらしい。僕だけは手元に置いて育てたいのだ、と懇願したそうだ。罪人といえど、ひとりの盲目の女が自分の産んだ子をひとりでも育てたいという願いを無下にできるほど、この国の評議員達も悪魔ではなかったということだろうか。それとも、僕のようにこの暗い国では典型的な、色素の薄い虚弱児は育ててもすぐに死んでしまうだろうと高をくくっていたのだろうか。

 おそらく後者だろう、と僕は思う。実際僕は、監禁されている母さんと共に、何度も死にそうになりながらこの家の中だけで育った。この国の宝である巨大な月長石が月の変わりを果たす昼の国には出たことがなく、月の昇らない早朝に、人目を忍んで月鏡のある神殿まで往復することしか僕は知らない。

 母さんが僕を選んで育てたのも、ただの偶然とは思えない。僕が産まれたその数ヶ月前に、彼もまた姫様に愛されて産まれてきていたのだ。母さんはそれを、僕が月鏡を覗きにいけるようになる年になるまで知らなかった。僕は月鏡で彼を知った。そして、母さんに言われるまでもなく、いつか地上に出て、彼の側で彼を守るのだと決めたのだ。

 けれど月日だけが無常に過ぎていく。僕は彼に何もできないまま、母さんが必死になって守ってきた月長石の小さな欠片に、力が溜まるのをただ待っていた。彼も僕も、十三の年からさらに二年を経て、もう一人前の男として扱われる十五歳になっていた。僕は相変わらず母さんの話してくれる月の姫の御伽噺を胸に、ひとりこっそりと月鏡から彼の様子を見守っていた。そして彼の誕生日から数ヵ月後の、僕の誕生日であるその日の朝、僕は信じられない言葉を月鏡から受け取った。

「しばらくはこの海を見ることもないな」

 二年の間に随分と低く響くようになった彼の声。波打ち際に寄ってきているのだろう、海を見下ろすその顔は日々幼さを無くし、益々旦那様に似てきている。その成長振りだけでも、僕は十分に自分が置いていかれていることを自覚していたのに、彼は何と言った? しばらくこの海を、僕がいるこの海を見ることがないと?

「たった一年だ。それに、海はどこでも繋がっているよ、デュール」

 彼の幼馴染であるイラファが彼に並んでそう言った。イラファの言うことは最もで、確かに海はどこでも繋がっていると母さんも言っているけれど、この海、その浜辺でなければ僕は彼の姿を見ることができないのだ。それなのに、一体どこへ行ってしまうというのだろう。

「準備はできているのだし、俺は今日中にでも出発して構わない感じだけれどな。俺は向こう一年お前に迷惑をかけたおすことが決まっているらしいぞ。準備をしながらお袋に一年分先払いだと説教される俺の身にもなれ」

 二人は勿論、愕然とする僕に気付くことなく話を進めていく。

「いいではないか。案外俺よりもお前の方が先に根をあげるかもしれない。サリのお小言がないと寂しいと言ってな」
「勘弁してくれ」

 笑いながら、僕の加わることのできない話を、どんどん、どんどん。

「まぁ、きっとあっという間だろう。王都の学院で学ぶべきことは、本来一年で修まりきるものではない。もっと居たいと思うことはあっても、早く帰りたいと思うことはないだろうな」
「そうだな。せいぜい吸収させてもらうさ」

 考えてもみなかった。陸はとても広くて、彼が住んでいる場所だけが全てではないと知ってはいた。そして彼はこの海を遠く離れて、陸の上を自由に移動することができる。知っていたはずなのに。

 その晩、僕は枕に顔を埋めて泣いた。一年。朝の数分でさえ、僕にとっては貴重な時間だったのに。一年も彼の顔を見ることができないなんて。おまけに――。

 もっと居たいと思うことはあっても、早く帰りたいと思うことはないだろうな。

彼の言葉がこんなに深く胸に突き刺さったのは初めてのことだ。彼は僕を知らない。僕がどんな想いで毎朝彼を見ているかなんてこと。だから彼を恨むのは筋違いだ。分かっている。

 分かっているけれどでも、どうしてなのかと恨まずにはいられない。どうして僕は海の底にいるのだろう。どうして海の底から抜け出せないのだろう。何故、僕は母さんの話してくれる月の姫ではないのだろう。彼女のように、月から僕を迎えに来てくれる使者が来ればいいのに。

「シュリ」

 彼の側で、彼と一緒に行けるイラファが羨ましい。そして、彼の側に産まれることができなかった自分が、とても疎ましかった。

「母さん、僕はもう嫌だよ。どうして今すぐ彼のところへ行けないの? どうして僕と彼の住むところは違ってしまっているの? 彼を守るのが僕の役目でしょう? それなのに……どうして側に行くこともできないの?」

 僕は子どものように泣いた。彼ならば、奥様を亡くした時にも泣かなかった彼ならば、僕のように情けなく泣き喚くこともないだろうと思うと、余計に涙が止まらなかった。母さんは、そんな僕を抱きしめて、ただ背を撫でるだけで、僕を叱ろうとも、慰めようともしなかった。


 それからさらに二年の月日が流れる。彼のいない一年の間に、僕は彼の弟であるリュシオ様のことを知るようになった。そしてもう一年で、王都から戻ってまた成長した彼に、なお一層会いに行きたくなった。

 けれどそうした僕の想いとは全く別の理由で、僕は突然、かつて姫様がやったと同じ方法でこの国を出ることになった。

「母さん」

 姫様が地上へ出られてから、評議員以外は誰も持つことの許されなくなった月長石。でも僕と母さんはそれを持っていた。小指の爪ほどの大きさもない小さな粒をそれぞれに。僕らはこれにこっそり、月の力を溜めていたのだ。月の光自体は、この深い海の底へは届かない。けれど水を伝わってくるその力は確かにここまで届いていて、僕らは誰にも見つからないようにしてそれを集めてきたはずだった。

「行きなさい。すぐに追いかけることの出来る人はいないわ。さぁ、これを口に含んで。ひとつは手に持っていくのよ。苦しくなったら……それでも我慢して、どうしても苦しくて駄目な時は、もうひとつを口に含むのよ。時間が足りなかったから、ひとつでは十分ではないわ。でも二つあれば行けるはず。今日は凪だから、波も読みやすいはずよ」

 どうして知れてしまったのだろう。もしかして、僕が月鏡を覗きに行っている姿を、とうとう見られてしまったのだろうか。僕はずっとこの国を出て行きたいと思っていた。出来るだけ早く。けれど思い描いていたその時には、必ず母さんの手を取っていたはずなのに。

「母さんを置いては行けないよ」

 二人のために用意してきた月長石を、二つとも僕の手に押し付ける母さんの手を、僕は押し返そうとした。けれどそれ以上の力で母さんは僕の手を押し返す。

「私は行けないわ。でもお前は行かなくては。これを奪われてしまったら最後、もう二度と月長石を手に入れることはできなくなってしまう。デュール様やリュシオ様にお会いできなくても良いと言うの?」

 ひとつの石に込められることの出来た力は多分、一人の人間を地上へ届けるには足りない。それでも二つを一人で使えば。

「お会いしたいよ、でもそれは母さんも同じでしょう?」
「……えぇ、勿論。でも、私が一番お会いしたいと思っていた方はもう地上にはいないわ」

 あぁ、それが誰かなんて、僕には聞かなくても分かっている。母さんの愛した人。母さんの全てだった人はここにいない。もはや地上にも。

「さぁ、シュリ! 行って! 地上がお前の本当の居場所よ。行きなさい!」

 背を押す母さんの力に、僕は逆らうことができなかった。ずっと約束してきたのだ。もしもこういう事態に陥ったら、僕らのどちらか一人でも必ず地上へ向かうと。

「シュリ! ……愛しているわ。どうか無事で……」
「うん。母さんも……」

 僕はその言葉を続けることができなかった。母さんも、無事で。そんなこと、無理に決まっている。一度目は両目を潰された。けれど二度目は? もう母さんだって子どもを産める体ではないのだ。今度こそ、この国は母さんを殺すだろう。そんな母さんに向かって僕が言えたのは、今まで一度も口にしたことのない別れの言葉だけだった。

「さようなら」

 母さんの何も映すことの出来ない目には、何が見えていただろう。どうか、僕の涙だけは見えていないで欲しい。僕は泣きながら、微笑む母さんに向かって微笑み返して、この国を守る月の魔法から身を投げた。


 口には小さな月長石の欠片。初めて感じる海の水は、口に含んだ月長石のおかげで重さを感じない。ただ冷たいだけだ。波は母さんの言った通り、穏やかだった。暗い、何も見えないほどに暗い海の中を、僕はひたすら地上目指して上へ、上へと昇っていった。


 会いたい、会いたい。
 早くあなたに会いに行きたい。


 力一杯上を目指しながら、僕は呪文のように心の中で繰り返した。


 あなたに会いたい。


途中で息が苦しくなり、体も海の重さを感じるようになった。でも僕は母さんの言ったことを守り、ほんとうにギリギリまで、次の月長石を使わなかった。周囲の海は黒から群青、そして蒼から輝く月色に変わった。二つ目の月長石も、僕を完全に地上へ届けるには力が足りなかったようだ。

 だが確かに、月長石は僕を月まで導いてくれた。僕は凪の波を鏡にして、水面に映る月の姿をとても美しいと思った。そして僕は波から顔を出すことなく、地上の空気というものを感じることなく意識を手放した。


 僕はずっと、あなたに会いたかった――。

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